H14.12.18 仙台高裁
公務外災害認定処分取消請求事件
平成14年12月18日判決言渡
平成13年(行コ)第9号 公務外災害認定処分取消請求控訴事件
(原審・盛岡地方裁判所平成4年(行ウ)第2号)
(口頭弁論終結日平成14年10月7日)
判 決
当事者の表示略
主 文
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 控訴の趣旨
主文と同旨
2 控訴の趣旨に対する答弁
(1) 本件控訴を棄却する。
(2) 控訴費用は控訴人の負担とする。
第2 事案の概要
1 本件は、被控訴人が同人の夫で小学校(岩手県X市立H小学校、以下「H小学校」という。)の教諭であった亡K1(以下「亡K1」という。)が、昭和58年1月24日ころ自殺していたところ、亡K1の自殺は、同人のH小学校における小学校教諭としての公務が過重となり、その精神的緊張及び重圧によってうつ病に罹患し、希死念慮発作によって引き起こされたものであるとして、控訴人に対し、地方公務員災害補償法に基づく公務上災害認定を請求したところ、控訴人が公務外災害の認定処分(以下「本件処分」という。)をしたため、同処分の取消しを求めて提訴したところ、原審が、亡K1は過重な公務により、うつ病に罹患し、その希死念慮発作によって自殺したもので、業務起因性が認められるとして、被控訴人の請求を認容する判決をしたので、控訴人が控訴したものである。
2 当事者の主張
本件における「争いのない事実」及び「争点」は、原判決の「事実及び理由」欄の「第2 事案の概要」中の「1 争いのない事実」、「2 争点1」及び「3 争点2」(原判決2頁6行目から同10頁15行目まで)と同一であるから、これを引用する。
第3 当裁判所の判断
1 当裁判所は、被控訴人の本訴請求は、亡K1が軽症うつ病あるいは何らかの精神疾患に罹患していた可能性は否定できないが、その担当する職務は公務過重とは認められず、したがって亡K1の自殺は公務に起因したものとは認められないので、これを棄却すべきであると判断する。その理由は、次のとおり付加・訂正するほかは、原判決の「事実及び理由」欄の「第3 争点に対する判断」(原判決10頁16行目から同24頁24行目まで)と同一であるから、これを引用する。
(1) 原判決10頁18行目の「40,41」を「35、40、41」と、同じ行の「乙9ないし11」を「乙4、9ないし11、21、29、31、33、43ないし46、55」とそれぞれ改め、同19行目の「同N1,」の次に「同I1、同S、同U、同T」を加える。
(2) 原判決11頁16行目から同12頁3行目までを次のとおり改める。
「イ 1学期
(ア) 亡K1は、H小学校での1学期当時、教師になって7年目で初めて1年生の担任になり、1年2組を担当した。亡K1が担当したクラスの中には、家庭の事情で欠席がちであった女子児童がいたことから、その児童のことを気に掛けていたが、同児童は両親の離婚が成立したことに伴い、昭和57年10月2日に転校した。
(イ) 亡K1は、被控訴人に微熱が続き頭痛を訴えることがあったが、その原因や継続した期間については明確でない。また、亡K1は、被控訴人に対し、校長が授業中に突然入ってくるので、子供たちの気が散るし、自分が監視されているようで、とてもいやである旨話していたことが認められるが、当時のH小学校のU校長としては、当時のH小学校は、木造の老朽校舎であったことから、危険な個所がないかなどを確認するために週に1回程度校舎を回っていたことが認められ、亡K1や他の教師を監視するために(亡K1がそのように感じたことはあったとしても)教室を回っていたとは認められない。さらに、亡K1は、被控訴人に対し「H小学校ってすごいぞ。職員室の黒板に日程が書かれていて、休憩時間が取られない形で書いてあっても、それにみんな慣れているような形で動いてんだぞ。変だなって感じるのは俺だけかな。」などと話すこともあった。しかしながら、亡K1の発言の趣旨は必ずしもはっきりしないうえ、休憩時間が黒板に記載されていなくとも、H小学校内細則(甲1)5条によれば、休憩時間、休息時間は校長が割り振ると規定されており、実際にもH小学校の他の教師は、その裁量の範囲内で適宜休憩、休息をとっていたことが認められるし、亡K1は、第1学年の担当であって、火曜日と水曜日以外は午後12時15分で授業は終了するのであるから、休憩時間が実際に取られていなかったということはできない。」
(3) 原判決12頁5行目から8行目までを次のとおり改める。
「(ア) 亡K1は、昭和57年7月25日から夏休みに入り、同人に割り当てられた各研究会の準備はあったものの、海水浴に1回と大船渡に花火を見に行ったりした。同年8月21日が2学期の始業式であったところ亡K1の、夏休みに入ってからの出勤状況をみると、同年7月は7日間のうち30日(金)は自宅研修で、31日(土)に年次有給休暇(以下「年休」という。)を取得したのみであったが、8月は20日までの20日間で出勤したのは9日間のみであった。」
(4) 原判決12頁14行目の「いわれたことがあった。」を「いわれたことがあったが、それ以上の具体的な話はなかった。」と改める。
(5) 原判決12頁18行目の「連続し,」から同20行目末尾までを「続いた。また、同月4日は、低学年だけの国語の低学団研究会があり、同月12日は道徳の全校研究会があった。しかし、全校研究会の日程は、年度当初の職員会議によって経験者から先に行うということで既にこの時期に亡K1が担当することに決定していたものであるし、学団研究会の実施時期は、担当する職員の都合に合わせてその申し出に応じたかたちで決定されていたものである。そして、各研究会における亡K1作成の指導案(甲4、6)はそれぞれ第1学年の学習指導書(甲4に対応するものとして乙13、甲6に対応するものとして乙14の1、2)を基礎にして作成されている。」と改める。
(6) 原判決12頁21行目の「平成7年度」を「昭和57年度」と、同23行目の「計画案の」を「計画案の備考欄の」と、同末行の「記載されていなかった。」を「記載されていないが、それ以前の日についても同計画案の備考欄に記載されていない日もあるほか、同月7日からは記載がなされるに至り、次第にその量も増え、同月20日以降は従前のように記載するようになった(亡K1は、同月17日の欄に「今日の道徳おもしろかったといってくれたのがとてもうれしい。」と記載している。)。なお、昭和58年2月4日に道徳の公開授業が行われることは、昭和57年4月の段階で決定されており、そのための資料決定は同年11月25日になされていたものであることは後記認定のとおりである。また、同年12月後半に、亡K1がU校長に「僕の学級の図画を見てください。お陰でここまで書けるようになりました。」といって子供の図画を見せたことがあった。」とそれぞれ改める。
(7) 原判決13頁1行目から同5行目までを次のとおり改める。
「 (ウ) 亡K1の2学期における年休の取得経過で同人の行動などをみると、昭和57年9月は、1日(水)には特免を取得し、8日(水)は、午後2時30分から、10日(金)は午後3時から、22日(水)は午後2時からそれぞれ午後5時まで年休を取得している。なお、21日(火)は授業参観日であり、16日(木)はI1教諭が道徳の、T教諭が国語の全校研究会を担当している。同年10月は、1日(金)には午後3時から、14日(木)は、午後1時からそれぞれ午後5時まで年休を取得している。19日(火)はXまつりで休校となっている。なお、7日(木)はT教諭が道徳の学団研究会を担当している。また、15日(金)は、K2教諭とA教諭が道徳の全学研究会を担当している。同年11月は、2日(火)には、学芸会の代休で休みである。4日(木)は、学団研究会で国語の、12日(金)は全校研究会で道徳の発表をしていることは前記のとおりである。14日(日)ころに亡K1の長男Yに高熱が続いたためX市民病院に入院したことから、亡K1は、16日(火)には午後2時30分から、18日(木)、19日(金)、22日(月)はいずれも午後1時から5時まで年休を取得している。Yは26日(金)に退院した。同年12月は、1日(水)には、午後2時30分から午後3時10分まで、同月24日(金)は午後1時から、28日(火)は、午前8時15分からいずれも午後5時まで年休を取得している。
(エ) ところで、原審における本人の尋問の結果において、被控訴人は亡K1が、2学期に入ってから、連日のように自宅で午後11時ないし翌日の午前1時ころまで仕事をするようになり、同年12月に入ると、通知票作成などの学期末業務と翌年の公開授業に向けた本件指導案の作成を平行して行っていたため、深夜まで自宅で仕事をするようになっていた旨供述するが、この点は必ずしも被控訴人が実際に確認したものでないことは、同人も供述するところであるし、その具体的な仕事の内容についても明確ではない。確かに、昭和57年11月4日は、低学年だけの国語の低学団研究会があり、同月12日は道徳の全校研究会があったが、全校研究会の日程は既に同年4月の段階で決定していたものであるし、学団研究会の実施時期は、担当する職員の都合に合わせてその申し出に応じたかたちで決定されていたものであり、各研究会における亡K1作成の指導案(甲4、6)はそれぞれ第1学年の学習指導書(甲4に対応するものとして乙13、甲6に対応するものとして乙14の1、2)を基礎にして作成したことが認められることは前記のとおりであることからすると、被控訴人のこの点の供述から直ちに亡K1の公務が過重であったと即断することはできない。」
(8) 原判決13頁6行目の「(エ)」を「(オ)」と改め、同11行目の「(オ)」を削り、同じ行の「亡K1」を「また亡K1」と改め、同14行目の「また」を「さらに」と改め、同18行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「なお、同月末ころには、学校内で風邪が流行し、亡K1もU校長から病院に行くように勧められたが、「若いから大丈夫です。」と答え、U校長から薬をもらって飲んだりしたことがあった。」
(9) 原判決14頁2行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「なお、亡K1は上記秋田市で開催された東北B青年教職員研究集会においてレポートを用意するなどして準備し、また、同集会においてメモをとっており、熱心に取り組んでいる姿勢が認められる。」
(10) 原判決14頁12行目から13行目の「出席し,同月11日に指導助言教諭であるO小学校のM教諭に本件指導案を提出し,」を「出席して、午前8時40分ころから午後3時30分ころまで資料指導案を検討し、その際亡K1は、本件指導案の修正前の指導案を提出したが、亡K1の当該指導案の内容は、ほぼ完成に近いかたちであり、同月8日ころ、指導助言教諭であるO小学校のM教諭のところに指導案を持っていき、構成などについて指導・助言を受け、さらに修正した本件指導案を同教諭に提出した。」と、それぞれ改め、同13行目から14行目の「その後も同指導案の修正を行っていたところ,」と、同20行目の「本件指導案の修正をするためという理由で,」をそれぞれ削り、同21行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「他方、亡K1は同月12、13日に年休を取得し、盛岡市で開催された日教組の教研集会に参加したが、その時の様子を同月17日にI2教頭に語ったり、子供の育て方について生き生きとした様子で話していた。同月は、4日、5日、10日、14日、18日が自宅研修となっており、同月20日の3学期の始業式までに出勤したのは、6日から8日までの3日と11日、17日、19日の3日の合計6日であった。そして、亡K1は19日の社会主義青年同盟の新年会に出席し、同じ会に出席した者から、酒の席ではあったが、亡K1のH小学校分会における活動について、「やっぱりK1さんもっと入っていかなきゃならないじゃないかな。・・・・K1さんもっと頑張ることでぎねのがなあ。」、「ずるいんじゃないか。もっと、前に出なきゃ。」と指弾されていた。」
(11) 原判決14頁25行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「亡K1は、同日の週学習指導計画案簿には「50日という短かい3学期、がんばってほしいと思う。」と記載している。
(イ) 同月21日に前記M教諭から、同年2月の道徳の公開授業について亡K1が先に提出した本件指導案の返却を受けたが、同人の指導案には、主題設定の最後の2行に朱書があるだけであったので一緒にいたT教諭から「K1先生は良かったね。私の指導案はほらこんなに訂正があるよ。」といってT教諭の指導案を見せられたところ、亡K1はにこっと笑っていた。」
(12) 原判決14頁末行から同15頁7行目までを次のとおり改める。
「(ウ) 同月22日、U校長は、I2教頭や教務主任から亡K1の前記M教諭から返却された本件指導案がほぼ完成しているとの報告を受けた。その後、亡K1は2階階段の踊り場付近に立っていたのをS教諭が見かけた(同人は、亡K1がぼおーっと立っているように見えた旨証言する。)が、少し話をしたのみであった。また、他の教諭に亡K1は話しかけ冗談も言っていた。同日亡K1は午後1時30分過ぎに実家の花巻に行き、花巻の病院に祖母を見舞ったうえ、午後10時30分ころ帰宅した(行き帰りの車中において、被控訴人に対し「うるさい。」などと怒鳴ったことがあった。)。同月23日は終日自宅で過ごし、本件指導案を検討するなどしたが、夜には被控訴人が亡K1の姉と電話している際、電話のそばで、1歳4か月になるYの声を聞かせようとして、Yをくすぐったりした後、自分が42歳になったら自宅を建て替えたいなどと家族に話した。」
(13) 原判決15頁8行目の「(ウ)」を「(エ)」と、13行目の「(エ)」を「(オ)」と改める。
(14) 原判決16頁15行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「なお、H小学校においては、昭和57年度は全校研が16回、学団研が6回の合計22回が予定されていたところ、実際に行われた回数は不明であるが、X市内の他の小学校においては年20回程度が行われていることからすると、H小学校が特別多いとはいえない。また、H小学校の昭和57年度の学校経営計画(甲1)では、全校授業研は年間一人1回とし、学団研も同様とし、学団研は、全校授業研の準備も行うものとし、略案程度で、気軽に取り組んでみようとされており、実際にも全校研でもB4サイズの用紙3枚程度の指導案を作成するものであり、その教材も国語、道徳の既存の学習指導書を基礎にしているものであることは前記のとおりである。」
(15) 原判決16頁23行目の「あった(H方式)。」を「あったが、この方式を、被控訴人が主張するように特に「H方式」と呼称するとの共通認識があったことを認めるに足りる的確な証拠はない。」と改める。
(16) 原判決17頁2行目の「また,亡K1は」を「また、原審における被控訴人本人尋問の結果によれば、亡K1は」と、同17行目の「話していた。」を「話していた等と被控訴人は供述する。しかし、他方、週学習指導計画案簿(甲2)には亡K1がH小学校における道徳教育や公開授業などについて悩んでいたことをうかがわせる記載はないし、同僚の教諭にもその悩みを相談したことはなかった。」とそれぞれ改める。
(17) 原判決18頁1行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「(なお、乙18、19によれば、K4分校においても、亡K1は、道徳の授業研を担当したことがあり、いわゆる抽出方法についてもH小学校の方法に類似していることが認められる。)」
(18) 原判決19頁6行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「(2) また、証拠(乙66)によれば、APA(アメリカ精神医学会)のDSM-IV診断基準では、2週間以上継続を基本としてその人自身が抑うつ気分の存在を、悲しみまたは、空虚感を感じていると表現すること、またはほとんど毎日の、すべて、またはほとんどすべての活動における興味、喜びの著しい減退が本人の言明、または他者の観察によって証明されることが原則であり、その他に体重減少(食欲減退)、不眠・睡眠過多、気力の減退・易疲労性、無価値感・罪責感、思考力や集中力の減退、死についての反復思考のうち3つが存在していることが証明されなければならないとされる。」
(19) 原判決19頁7行目の「(2)」を「(3)」と改める。
(20) 原判決19頁14行目の「(3)財団法人」を「(4) 亡K1の行動全般について専門家の見解をみると、財団法人」と改め、同20頁3行目の次に行を変えて次のとおり加える。
「他方、東邦大学医学部精神神経医学研究室助教授K3(以下「K3医師」という。)は、N2医師と同様に本件訴訟記録を検討した上で、その意見書など(乙66、67の1)において、結論において亡K1の自殺は公務が精神的に過重な負担となり、その結果精神疾患に罹り、正常な認識等が阻害され、自殺行為を思い止まる精神的な抑止力が阻害された結果のものであるとは認められず、公務外と判断し、N2医師の見解とは正反対の結論を示している。」
(21) 原判決20頁4行目から同21頁5行目を次のとおり改める。
「(5) 前掲第3、1に掲げた証拠及びそこで認定した事実を前提に検討すると、被控訴人の主張及びN2医師の見解では亡K1が抽出児の技法をもって道徳の授業計画をすすめる作業が同人の児童観、教育理念にそぐわず、同人に特別な精神的負担を与えたとするが、週学習指導計画案簿(甲2)の内容からは道徳の授業について悩んでいたことはうかがわれず、周囲の教諭にも悩みをうち明けたり相談したような形跡はないこと、昭和57年10月18日から同年12月6日までの間は、週学習指導計画案簿(甲2)の備考欄に従来のような記載がないが、それ以前にも記載がない日があるうえ、これは、その間10月3日のPTA運動会、同月13日の遠足、同月16日のいもの子会、同月30日及び31日の学芸会、11月には6日のゲーム集会、20日のマラソン大会などの学校の行事が続いたこと、また11月中旬から下旬にかけて長男Yの入院による年休の取得などがその原因とも考えられること、同年12月7日からは記載がなされるようになり同月20日以降は従前のように記載がなされるようになっていること、同年10月18日の週以降にも備忘録(甲41)には記載がなされている箇所があり、その内容はそれぞれ明瞭であることからすると、亡K1にとって道徳の授業が特別な精神的な負担となっていたとまではいえないというべきである。また、同年11月4日の国語の学団研、同月12日の道徳の全校研究会も無事にこなし、同年12月28日、29日の秋田市で開催された教職員組合の研究集会に泊まりがけで、レポートを用意して参加しており、昭和58年1月12、13日には年休を取得して、盛岡市で開催された日教組の教研集会に参加し、その時の話を教頭に熱っぽく語っており、同月19日には社会主義青年同盟の新年会に出席しているが、周囲の者も特におかしいと感じていないこと、同月22日には亡K1の実家である花巻に自家用車を運転して日帰りしていること、同月23日の夜には、長男Yの声を妻と電話をしている亡K1の姉に聞かせようとして、電話の脇でYに話かけたり、くすぐったりしていること、失踪当日の同月24日の出勤前に義父に坂道を滑らないよう気を付けるように声をかけていること、亡K1の遺書(乙9)には、その書体及び内容ともに乱れが認められないのであって、これらの事実によれば前記「うつ病エピソード」の各診断の基準に照らしても、うつ病エピソードにおける基本症状である当人自身が抑うつ気分の存在、悲しみまたは空虚感を感じていることを表現するか、全てまたはほとんど全ての活動における興味、喜びの著しい減退が当人の言明または他者の観察によって証明されてるとはいえず、亡K1が反応性うつ病を含む中等症ないし重症うつ病に罹患していたとまで断定することはできない。
もっとも、昭和57年12月2日、亡K1は、体重測定において以前から5キログラム減少した52キログラムであり、食欲も不振であったことが認められること、昭和57年10月18日から同年12月6日までの間は、週学習指導計画案簿(甲2)の備考欄に従来のような記載がないこと、昭和57年12月に疲労感を訴えていたこと、昭和58年1月20日には、被控訴人や同居の養父母が亡K1が疲れている様子であったことから病院に行くよう勧めていることなどを考慮すると、そのころ軽度のうつ病あるいは何らかの精神疾患を発症した可能性を全く否定することもできないと解するのが相当である。」
(22) 原判決21頁6行目を「3 争点2(業務起因性)について」と改める。
(23) 原判決21頁14行目から同23頁10行目までを次のとおり改める。
「(2) 公務との関連性について
亡K1は1学年を初めて受け持ったものであり、1学年は高学年に比べて単元数においては少ないといえるが、他方1学年は他の学年よりも授業の準備に時間がかかることがあり、基本的な生活態度の習慣付けなどをする必要がある点でそれだけ手間がかかることも否定しがたいところである。しかしながら、前記第3、1に掲げた証拠並びにそこで認定した事実によれば、H小学校における学団研究会及び全校研究会の回数につき、昭和57年度は全校研が16回、学団研が6回の合計22回が予定されていたところ、実際に行われた回数は不明であるが、X市内の他の小学校においても年20回程度が行われていることからすると、H小学校のみが特別多いということはできない。また、各上記各研究会の内容については、同小学校の昭和57年度の学校経営計画(甲1)によると、全校授業研は年間一人1回とし、学団研も同様とし、学団研は、全校授業研の準備も行うものとし、略案程度で、気軽に取り組んでみようとされていて、実際にも全校研でもB4サイズの用紙3枚程度の指導案を作成するものであり、指導案作成の負担についても、その教材は国語、道徳の既存の学習指導書を基礎にしているものであって、全く新しく作成しなければならないものではないこと、週学習指導計画案簿(甲2)には、亡K1がH小学校における道徳教育や公開授業などについて悩んでいたことをうかがわせる記載はなく、同僚の教諭にもその悩みをうち明けたり相談したことは認められないこと、亡K1は、教師になって7年目であり、以前に勤務したK4分校においても、亡K1は、道徳の授業研を担当したことがあり、いわゆる抽出方法についてもH小学校の方法に類似していること、指導案の作成についても全く経験のない教諭や教諭2年目の者も、臨時の講師さえも授業研究会をこなして、指導案を作成していることなどが認められるのであって、これらの事実を総合するとH小学校における亡K1の公務が特に過重であったため、これが原因となって亡K1に軽症うつ病が発症したとまで認めることはできない。」
(24) 原判決23頁11行目から同24行目までを次のとおり改める。
「(3) 公務以外の事情について
前記第3、1に掲げた証拠並びにそこで認定した事実によれば、亡K1は、岩手県職員組合に所属し、H小学校に転任前は、活発に活動したことが認められるが、H小学校に転任後は同組合X支部に所属し、泊まりがけで研修会に参加したりはしたものの、以前ほど活発ではなかったところ、昭和58年1月19日の社会主義青年同盟の新年会に出席し、同じ会に出席した者から、酒の席ではあったが、亡K1のH小学校分会における活動について「やっぱりK1さんもっと入っていかなきゃならないじゃないかな。・・・・K1さんもっと頑張ることでぎねのがなあ。」、「ずるいんじゃないか。もっと前に出なきゃ。」と言われたことが認められ、亡K1が組合活動について何らか悩みがあったのではないかとも推測され、その意味で、亡K1が軽症うつ病あるいは何らかの精神疾患を発症した可能性について、公務以外の事情による可能性も否定できない。なお、亡K1は、H小学校に転任するに伴い、既に養子縁組をしていた被控訴人の両親とともに同居することになり、H小学校へはその同居先から自家用車で通勤していたことが認められるが、夫婦仲が悪かったとか、養親との折り合いが悪かった等の事情はなく、むしろ、被控訴人も両親も亡K1を気遣っていたことが認められるのであって、家庭内の事情が軽症うつ病等の発症可能性の心理的負荷となった事情は認められない。また、亡K1に精神障害を発病させる何らかの素因がなかったことは前記認定のとおりである。」
(25) 原判決23頁25行目から同24頁24行目までを次のとおり改める。
「(4) 亡K1は、前示のとおり、中等症ないし重症うつ病に罹患していたとはいえないものの、軽症うつ病あるいは何らかの精神疾患を発症した可能性を全く否定することはできない。しかしながら、以上の説示に従うと、亡K1の軽症うつ病の原因が、亡K1の担当した公務が特に過重であった点にあるとまで認めることはできないというべきである。したがって、公務の過重が原因で亡K1が自殺したものであると認めることはできない。」
4 以上の次第で、被控訴人の本訴請求は理由がないから、これを棄却すべきであり、これと異なる原判決は失当として取消しを免れない。
よって、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法67条2項、61条を適用して、主文のとおり判決する。
仙台高等裁判所第三民事部
(裁判長裁判官・喜多村治雄、裁判官・小林崇、裁判官・浦木厚利)